仙台高等裁判所 昭和27年(う)221号 判決 1952年9月15日
控訴人 原審検察官 那賀島三郎
被告人 遠藤イシ
弁護人 嘉藤亀鶴
検察官 屋代春雄関与
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一年六月に処する。
原審及び当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
検察官那賀島三郎の控訴趣意並に弁護人嘉藤亀鶴の答弁は記録に編綴の右検察官作成名義の控訴趣意書及び右弁護人作成名義の答弁書記載のとおりであるから茲に之を引用する。
控訴趣意第一点について、
原判決は挙示の証拠により原判示事実を認定し之に対し刑法第二百二条後段を適用している。しかし刑法第二百二条後段の犯罪が成立するには其の嘱託又は承諾か被殺者の任意にして且真意に出でたものであることを要すべく、其の嘱託又は承諾と殺害行為とは主要の点において相一致し自殺者又は被殺者において生を絶つことについて責任能力をもち重大なる瑕疵ある意思に基かないものであることを要すると解すべきである。従つて然らざる場合には本罪は殺人罪に対し特別罪の関係に立つものであるから普通殺人罪のみが成立するものといわなければならない。よつて本件につき是をみるに後記証拠により認定しうるとおり被告人が追死の意思がないのに拘らず被害者を欺罔し其の旨誤信せしめてオブラート包入の硝酸ストリキニーネを嚥下せしめ生を絶つに至らしめたものであるから重大な瑕疵ある意思に基き死を決せしめて死亡するに至らしめたものと断ずべきである。従つて同意殺人の罪が成立する余地なく殺人罪のみが成立するものと認むべきであるのに原判決は、この解釈を誤り本件を殺人罪で問擬せず嘱託又は承諾による殺人罪とし関係法条を適用して処断したのであつて之が法令適用の誤りは判決に影響を及ぼすこと明らかである一方判決に影響を及ぼすべき事実誤認の違法を冒したものと認むべきであるから原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。
よつて刑事訴訟法第三百九十七条に則り原判決を破棄し同法第四百条但し書により当裁判所において更に次のとおり判決をなすべきものであるから尓余の論点についての判断はこれを省略する。
(罪となるべき事実)
被告人は幼少の頃父母に死別したため、遠い親戚に当る佐藤ノブの手で育てられて小学校を卒業し、看護婦の免状を貰つてから、昭和十六年九月頃井上清一の媒酌で当時北海道において開拓農業に従事して居た現在の夫遠藤秀夫と結婚し、次いで農業技術員となつた夫とともに昭和十八年六月頃福島県耶麻郡奥川村に引揚げ、その後夫の職務関係によつて同郡北山村、檜原村等を経て昭和二十三年八月頃肩書本籍地に移り住み、夫秀夫は同地の熱塩村農業協同組合に勤め、被告人も亦その間助産婦となり或は保健婦として勤務する等夫とともに働き続け平和な家庭生活を営んで居たものであるが、夫秀夫が昭和二十六年四月頃から当時同じ協同組合に勤めて居た女事務員遠藤節子(昭和七年六月七日生)と懇ろになり、遂には子のない被告人を離別して右節子と夫婦となることまで約束して居ることを聞知するとともに、その頃夫秀夫の被告人に対する愛情が薄くなりつつあることを感じられるようになつたので、独り心を痛め、日夜その対策に腐心した結果、右節子に直接面会の上同人に対し夫秀夫との間の不倫な関係を絶つべく要請し、若しこれに応じなければ右節子を毒殺しても家庭の平和を取戻そうと決意し、同年六月頃喜多方保健所で実施した野犬狩の際使用した残りの硝酸ストリキニーネの内約〇・五瓦を、ひそかに持ち出し準備を整え、同年八月十一日夫秀夫の不在をたしかめた上、勤務先を早退して帰宅する途中前記協同組合に立ち寄り節子を呼出し自宅に連れ込み、折柄留守居をして居た夫の妹道子を外出させた後、同所において先づ節子に対し夫秀夫との不倫な関係を絶つよう申入れたところ節子において秀夫とは互に愛し合つて居るから離れられないと素気なく拒絶された上勝ち誇るかのような態度を見せつけられ、節子に対する嫉妬と憎悪の情益々募り、茲において同死を装い前記毒薬を嚥下させて同人を殺害せんと決意し自ら死ぬ意思のないのに拘らず節子に対し「私も愛し続け、お前も愛し続けると云うがその結果はどうなるか、俺も死ぬからお前もこれをのんで死んで呉れ」と詐言を以て自殺を慫慂したが同人は黙して答えないので更にこれを黙つて飲んでくれといつて予て準備して置いた前記オブラート包の硝酸ストリキニーネ約〇・四瓦を節子の口の中に差入れ次いでコツプで水を与えこれを嚥下せしめたため、同日午後零時頃右節子をして熱塩村大字熱塩字天神林丁九百四十三番地の同人方において嚥下せる右硝酸ストリキニーネの作用に因る痙攣発作時の窒息のため死亡せしめて殺害の目的を遂げたものである。
(証拠)
以上の事実は
一、菊地秀子の司法警察員に対する参考人供述調書の記載
一、横沢勇の司法巡査に対する供述調書の記載
一、関本キクエの司法警察員に対する供述調書の記載
一、東条常利の司法警察員に対する第一回供述調書の記載
一、遠藤道子の司法警察員に対する第一回及び第二回供述調書の各記載
一、遠藤次男、飯塚テル子、遠藤ソノ、菅原清次郎、佐藤ソノ及び遠藤ノブエの司法警察員に対する各第一回供述調書の各記載
一、原審裁判所の検証調書並びに証人江川トシイ、同遠藤秀夫、同遠藤ソノ、同村田俊美及び同岩渊二郎に対する証人尋問調書の各記載
一、原審第一、二回公判調書中被告人の供述記載
一、原審第三回公判調書中証人田宮篤二郎及び同佐藤好武の各供述記載
一、田宮篤二郎の副検事に対する供述調書の記載
一、被告人の副検事に対する供述調書並びに司法警察員に対する第一乃至第四の各供述調書の各記載
一、副検事の検証調書二通(いずれも昭和二十六年八月十五日附のもの)の各記載
一、鑑定人田宮篤二郎の作成した遠藤節子の死体に対する鑑定書の記載
一、警察技官佐藤好武及び同蓮田三郎の共同作成に係る鑑定書二通(昭和二十六年八月十七日附及び同月二十二日附のもの)の各記載
一、警察技官上見政見及び警察事務官中村辰美の共同作成に係る昭和二十六年九月十日附鑑定書の記載
一、警察技官上見政見の作成した昭和二十六年十月十二日附鑑定書の記載
一、司法警察員巡査田中端千代の作成した昭和二十六年八月十一日附領置調書の記載
一、司法警察員村田俊美の作成した昭和二十六年八月十二日附捜索差押調書及び押収品目録の各記載
一、当審における検証調書の記載
一、当審における証人関本キクエ、佐藤ソノ、遠藤道子、遠藤秀夫、遠藤ソノに対する各尋問調書の記載
一、押収にかかる硝子コツプ一個(証第一号)並びにオブラート及び粉末薬包(袋)一個(証第二号)の存在
を総合して之を認める。
(法令の適用)
法律に照すと被告人の判示所為は刑法第百九十九条に該当するところ所定刑中有期懲役刑を選択し、犯罪の情状憫諒すべきものがあるので同法第六十六条六十七条第七十一条第六十八条第三号により其の刑を酌量減軽した範囲内で被告人を懲役一年六月に処し原審及び当審における訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項に則り被告人に負担せしむることとし主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大野正太郎 裁判官 松村美佐男 裁判官 蓮見重治)
検察官の控訴趣意
一、原判決は法令の適用に誤があつてその誤が判決に影響を及ぼすこと明らかである(刑訴三八〇)。
原判決は(罪となるべき事実)として「被告人は幼少の頃父母に死別したため、遠い親戚に当る佐藤ノブの手で小学校を卒業し、看護婦の免状を貰つてから、昭和十六年九月頃井上清一の媒酌で当時北海道において開拓農業に従事して居た現在の夫遠藤秀夫と結婚し、次いで農業技術員となつた夫とともに昭和十八年六月頃福島県耶麻郡奥山村に引揚げ、その後夫の職務関係によつて同郡北山村、檜原村等を経て、昭和二十三年八月頃肩書地に移り住み、夫秀夫は同地の熱塩村農業協同組合に勤め、被告人も亦その間助産婦となり或は保健婦として勤務する等、夫とともに働き続け平和な家庭生活を営んで居たものであるが、夫秀夫が昭和二十六年四月頃から当時同じ協同組合に勤めて居た女事務員遠藤節子(昭和七年六月七日生)と懇ろになり、遂には子のない被告人を離別して右節子と夫婦となることまで約束して居ることを聞知するとともに、その頃夫秀夫の被告人に対する愛情が薄くなりつつあることを感じられるようになつたので、独り心を痛め、日夜その対策に腐心した結果、右節子に直接面会の上同人に対し夫秀夫との間の不倫な関係を絶つべく要請し、若しこれに応じなければ右節子を毒殺しても家庭の平和を取戻そうと決意し、同年六月頃喜多方保健所で実施した野犬狩の際使用した残りの硝酸ストリキニーネの内約〇・五瓦をひそかに持ち出し準備を整え、同年八月十一日夫秀夫の不在をたしかめた上、勤務先を早退して帰宅する途中前記協同組合に立ち寄り節子を呼出し自宅に連れ込み、折柄留守居をして居た夫の妹道子を外出させた後、同所において先ず節子に対し夫秀夫との不倫な関係を絶つよう申入れたところ節子において秀夫とは互に愛し合つているから離れられないと素気なく拒絶された上、勝ち誇るかのような態度を見せつけられ、節子に対する嫉妬と憎悪の情益々募り、茲において同死を装い前記毒薬を嚥下させて右不倫関係の清算を遂げんと決意し自ら死ぬ意思ないのに拘らず、節子に対し「私も愛し続け、お前も愛し続けると云うがその結果はどうなるか、俺も死ぬからお前もこれをのんで死んで呉れ」と詐言を以て自殺を慫慂した結果同女をして自殺の決意を為さしめた上予ねて準備して置いた前記オブラート包の硝酸ストリキニーネ約〇・四瓦を節子の小さく開いた口中に差入れて嚥下せしめたため、同日午後零時頃右節子をして熱塩村大字天神林丁九百四十三番地の同人方において嚥下せる右硝酸ストリキニーネの作用に因る痙攣発作時の窒息のため死亡せしめてその目的を遂げたものである」と認定し、それに対する法令の適用として刑法第二百二条後段を摘示している。然しながら原判決認定の事実に対しては刑法第百九十九条殺人罪を以て問擬すべきに拘らず刑法第二百二条後段を適用したのは法令の適用を誤つたものと解する。即ち刑法第二百二条の成立には自殺者又は被殺者の意思決定が自由且つ任意であらねばならず、意思決定に際し自殺者又は被害者の自由を阻害する程度の脅迫、欺罔があつた場合には本条を以て論ずべきでないと解する。犯人が追死の意思がないのに拘らず被害者を欺罔し特に犯入の追死を予期して自殺せしめ或は被殺の同意を与えた場合に於ては殺人罪を構成すべきものであつて、意思決定の自由並任意性を阻害する方法が脅迫によると欺罔によるとその法的評価に差異はないものと解する。
学説も亦同様の見解に樹つものが多く左記の通りである。「本罪(二百二条の罪)の成立には凡て被害者の任意又は同意を条件とするが故に被害者の意思の瑕疵が問題となるべし。この点については被害者の重大なる意思の瑕疵は任意又は同意を阻却す。従つて例えば犯人追死の意思なきに拘らず被害者を欺罔し特に犯人の追死を予期して自殺せしめたる場合に於ては又通常の殺人罪なり。被害者を脅迫して同意せしめたる場合も亦同じ」(宮本学粋五四一頁同趣旨大綱二八〇頁江家各論一九三頁小野各論一六四頁島田各論一六七頁参照)。而して斯る瑕疵ある意思決定に基く死は被害者の意思に反する殺害と同視すべきものなることは社会通念と、人の生命を保護する刑法の精神に照し明白なることと信ずる。
仍て本件につき案ずるに被告人は毒殺の意思は充分あり、犯行当日の情況から被告人の殺意には疑をはさむ余地なき処被害者は被告人の追死を予期し死を決意したのであつて(原判決は「私も愛し続け、お前も愛し続けると云うがその結果はどうなるか、俺も死ぬからお前もこれをのんで死んで呉れ」と詐言を以て自殺を慫慂した結果同女をして自殺の決意を為さしめ」と認定している如く)この事は被害者の死の意思決定につき最も重要な要素となつたものである。本件の悲劇が一人の男を二人の女が争う愛慾の果てに相互に男に対する独占を許さず死を以て一切の清算をせんとした結果生じた事実によつても明らかである、従つて若し被害者に於て被告人の欺言を予め知つたなら恐らく本件の如く易々として自己の競争者である被告人のすすめる死への方法を選ばなかつたであろう事は諸般の情況証拠(特に原裁判所の検証に於ける被告人の陳述)に徴し肯定できるのであつて従つて被害者の意思決定の過程には重大なる瑕疵が存したものというべく原判決の認定事実に徴してもこの事は明らかである。されば本件は殺人罪を以て問擬すべき処第二百二条後段を適用したのは法令の適用を誤つたものと云うべきである。
刑法は第二百四十六条に於て詐欺罪を規定している。即ち人を欺罔して財物を騙取した場合は詐欺罪である。而して財物は法益中最下位に位するもので此の法の最下位の法益に対する詐欺すら其の法定刑は十年以下の懲役である。然るに法益中の最高位に位する法益たる人命を詐言の下に承諾を得て奪う本件行為は即ち人命の詐欺であり、之を承諾殺とせば其の法定刑は懲役七年以下であり、彼我刑の権衡を失するも甚だしい。又原判決は検察官の主張する殺人罪の成立を排斥する理由として「被害者である遠藤節子に於て被告人の詐術に基くとするも死の決意をして居つたことは被告人の当公廷に於ける供述遠藤道子、飯塚テル子の各司法警察員に対する供述調書記載並被害者節子が判示オブラート包の毒薬を嚥下した事実に徴し之を認めるに十分であるから被告人の所為は殺人罪を構成しないもの」と説示しているが果して然らば原判決の論理に従えば普通殺人罪につき被告人側に於て被殺者が犯行以前に既に「死を決意していた事実」を立証し得たとせばすべて殺人罪は構成せず刑法第二百二条が成立することになるが、かかる論理の取り得ないことは明白である、又右所論は原判決が「罪となる事実」に於て「被告人が――詐言を以て自殺を慫慂した結果同女をして自殺の決意をなさしめた上」と認定した事実と矛盾している。更に原判決が認定した罪となる事実が殺人罪を構成するか否かの根拠は法適用の問題であるにも拘らず充分な説明を為さずして単に死の決意の有無如何によつて検察官の主張を排斥しているのは重大な誤謬を犯しているものと言うべきである。
二、原判決の理由にくいちがいがある。(刑訴三七八条第一項四号後段)。
原判決は「罪となる事実」に於て自殺教唆(刑法第二百二条前段)と認定しながら法令の適用に於て同条後段を適用したのは理由にくいちがいがあるものと解する。原判決の「罪となる事実」はその表現頗る妥当性を欠いているけれどもその摘示事実は自殺教唆と解される。即ち刑法第二百二条前段自殺教唆罪の構成要件の重要な要素は(1) 自殺の決意なき者をして自殺の決意を生ぜしめること。(2) 自殺の実行行為は自殺者自ら行う。であり、刑法第二百二条後段の「嘱託殺又は承諾殺」(含めて同意殺と称する)の構成要件の重要な要素は(イ)被殺者の死の意思はその嘱託又は承諾以前に決定されていること
(ロ)死の惹起に対する行為は「被殺者」の概念からも当然被殺者以外の者の行為に基くことであり、自殺教唆罪と同意殺との区別も亦前記二点に存すると解する。
よつて本件につき案ずるに原判決の認定した「罪となる事実」は「被告人――詐言を以て自殺を慫慂した結果同女をして自殺の決意を為さしめた上」と認定し明らかに被告人の行為に基き被害者が自殺を決意したものとして前記(1) の如く説示しているのみならず被害者の死の結果に対する行為は原判決の認定によれば「被告人は――予ねて用意の――約〇・四瓦を節子の小さく開いた口中に差入れて嚥下せしめたため――死亡せしめ」たと認定し被告人がかねて準備した毒薬を口中に差し入れた処が被害者が嚥下したとして前記(2) の如く説示している。(この場合被告人が自らの行為により被害者に嚥下せしめたならば事実は明確に殺人罪を構成するであろう)。果して右の通りであるならばその犯意並びに行為の態様から原判決認定の事実を観察すればその「罪となる事実」に於て原判決は明らかに「自殺教唆」罪として認定したものというべきであるから法令の適用は刑法第二百二条前段を以てすべきに拘らず同条後段を以て擬律したのは理由にくいちがいがあるものというべきであつて原判決は破毀を免れぬ。
三、原判決は刑の量定不当である。
原判決は承諾殺の事実を認定しこれに刑法第二百二条後段を適用の上被告人の境遇、本件犯罪の動機及原因その他諸般の情状を斟酌して懲役三年(但し四年間執行猶予)に処したが該判決は諸般の事由に鑑み軽きに失するものと思料する。被告人の境遇、本件犯罪の動機、原因には情状酌量すべきものあり、節子と秀夫の関係は将しく不倫関係で非難さるべきものであり、被告人の精神的苦悩には同情すべきものがある。然し本件は職業的智識を利用した計画的犯行で被告人の性格、犯罪の動機、手段、方法、社会に及ぼす影響等、左記の諸点を考慮せねばならない。
(1) 被告人は本件犯行に至る迄の間に秀夫と節子との関係を解消せしむべく充分な努力を払わなかつた事。被告人は秀夫と節子との関係を知り秀夫の態度が段々冷たくなるので日夜苦悩して秀夫に対し節子との関係を解消する様再三申入れた事実があるが犯行前に於て節子に対し秀夫との関係を絶つ様申入れ説得に勤めた事実はない。節子は被告人も云う通り小娘に過ぎず箸にも棒にも掛らぬと云う不良娘でもないし秀夫との関係も僅かの期間であるのだから年長の被告人が説得に勤め又節子の両親を介して訓戒して貰う一方秀夫に対してはその雇主なる組合長(熱塩農業協同組合)に依頼し懇々と説諭したならば両名の関係は解消したであろうと思われる。これにても尚解消せざれば家事調停に申立てる等家庭の平和を取戻す方法があつた訳であるが被告人はこれが十分な努力をせず一途に節子に対する極度の嫉妬憎悪の念に駆られ殺害を計画して本件犯行に出でたるもので犯情重きものであると考える。
(2) 被告人は犯行以前に於て節子に面談した事なく勿論節子から直接悪口、侮辱、暴行等憎悪怨恨を激昂させるが如き言動を為された事実は無いし又節子が秀夫と被告人との仲を裂くが如き積極的又は計画的行動を取つたと云う事実もない。節子は単に秀夫と懇ろとなり肉体関係を生じたに過ぎない程度であるのに一回面談し「秀夫と別れられない」と言われた丈でこれを殺害するが如きは到底認容し難い。
(3) 本件は計画的犯行である。
(4) 本件は被害者に生命の抛棄につき承諾ありたるとするもこの承諾は被告人の詐言による所謂瑕疵ある承諾であり、被害者の意思に反する殺害である事。
(5) 被告人は猛毒物を嚥下し間もなく死する運命にある節子に対し尚も憎悪の念止め難く節子の顔を数回殴打していること。硝酸ストリキニーネを嚥下せる節子は命且夕に迫れる屍であり、これを殴打せるは死体に鞭打つに等しい、茲に被告人の異常な迄に極度な嫉妬、憎悪の情と冷酷残忍性を看取することが出来る。
(6) 被害者節子は普通の家庭に両親の慈愛の許に育ち農協に事務員として奉職し悪評なき普通の娘であり年令僅に十九歳、前途に多くの将来を持ち乍ら偶々秀夫との関係を生じ「秀夫とは別れられない」との一言が原因となつて生命を失う結果となつたものでその犯行の経過に徴する時節子に対し憐憫の情を禁じ得ないし両親の悲嘆の程も察せられる。
(7) 本件は職業的智識を悪用した犯行であること。被告人は喜多方保健所勤務の保健婦であり民衆の保健衛生の為民衆と公共の福祉に奉仕すべき職責を有し、その智識は挙げて民衆の幸福の為に利用すべきものなるに拘らずこれを悪用し然も保健所から公用物たる猛毒物硝酸ストリキニーネを無断持出し、これを使用して人を殺害したもので、その犯情は悪質であり、保健所の名誉と信用を毀損した事甚だしきものがある。
(8) 本件は毒殺であり模倣伝播性のある事。この種毒殺が模倣される傾向のある事は従来の実例に徴し明白な事である。
以上の諸点を総合して観察勘考する場合実刑を以て被告人の刑事責任を追及する事の相当なる処、原判決は被告人の主観的情状のみを重視してその犯罪の態様に対する客観的理性的認識に欠けている憾みがあり量刑余りにも軽きに失するものと思料する。
終戦後人命を軽視する風潮あり、事の解決に殺人の方法を以てする傾向がある。人命は基本的人権中の最高の人権であり、我も人もこれを最高の人権として相互に尊重せざれば真の民主主義は実現されない。裁判所は人命の尊厳を擁護しこれを尊重すべきものなる事を世人に教示する使命を有するものと考える。